デビューアルバムの録音と『QUEEN I』になった理由:Queen The Greatest Special Part 2 (Episode 2)
こんにちは
猫好き父さんです
テープの音声を聞いていると
非常に細かい作業を
アナログ的にやっているのが
わかりますね
少しでも何らかの編集に関わったことがあれば
わかりますね
今では
デジタル技術でもっと
簡単に、とはいえ
膨大な作業だとは思いますけど
生まれ変わったというか
やりたいことが
本当の意味でできたということで
QUEEN Ⅰ
なんでしようね
画像は公式からの引用です
デビューアルバムの録音と『QUEEN I』になった理由:Queen The Greatest Special Part 2 (Episode 2) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6Y-BMViFwck
Transcript:
(00:01) クイーン・ザ・グレイテスト・スペシャルへ 再び ようこそ ブライアン・メイとロジャー・テイラーが “QUEEN I”の物語を案内します 1972年の春 クイーンは自信とエネルギー 楽曲に満ち溢れていました しかし 自分たちの実力を示す機会が ありませんでした トライデントと マネージメント契約を結んだバンドは ようやく1stアルバムの 録音をできる状況になりました しかし 録音のタイミングは かなり不安定でした 最初は大変だった でも 最終的には スタジオでまとまることができた 俺達が使えたのは 空いている スタジオが空いてるときだけ 空いている時間帯だけだった なぜなら 僕らのマネジメントが 所有していたスタジオは トライデント・スタジオのことだが 70年代には 流行のスタジオのような存在だった そこにいた俺達は 午前3時に行って それからできる限り ずっとスタジオにいたんだ
(01:06) 大変だった いつスタジオに 戻れるかわからなかったんだ テープはごちゃごちゃになって どこかいってしまって 作業は途切れ途切れになるし 時には 以前の作業を知らない 別のエンジニアが作業したりして 本当にひどい有様だった まとめるのが難しかった 本当に 大変な時期だった 重要なことは クイーンがスタジオに入り ついに1stアルバムの 録音を始めたということです バンドが成長するために 費やした時間と努力は 無駄ではありませんでした スタジオ入りする頃には かなり形になっていたと思う 本当に死ぬほどリハーサルを 繰り返した 全員が他の仕事や 学生の用事を抱えながらもね 多くの時間を費やし 細心の注意を払った 事前の練習を十分こなして 多分 やり過ぎなくらいね 一緒に作業をすることに 慣れていったんだ すぐに本領を発揮したと思うよ 入念な準備と自信が あったにもかかわらず プロのスタジオでの作業には まだ慣れる必要がありました [ロジャー] 準備はいい?
(02:09) よし 静かに OK 次はテイク8だ 録音開始 [ロジャー] うるさすぎる よし 1 2 3 4 1 2 3 4 [ジョン] タイミングがずれた [ロジャー] 速くなってるよね [フレディ] いや [ロジャー] バスドラムが全く聞こえない [ジョン] ドラムを足してもらえる? [フレディ] 雷みたいな音だね 俺達は全てを学んでいた プロデューサーがいるなんて 初めてだから 2人に頼んだんだ ジョン・アンソニー もう一人は ロイ・ベイカー ロイは自分のやり方に こだわるタイプだった 彼は スタジオでは厳しくて ボスみたいだったね 私たちもいた 早熟な少年たちは 自分たちが良いと思うものを すでに作っていた ディ・レーン・リーでね だから 自分たちのやり方で 進めようとしていたんだ 残念ながらその方法は 成功しなかった というのも
(03:11) 大きなプレッシャーがあったんだ ジョン・アンソニーと ロイ・ベイカーの後ろにね そのプレッシャーは TAP社だった 世界的にサウンドで定評のある スタジオでの音 とくにドラムだね トライデントのドラム・サウンドは 世界的に賞賛されていた でも それは求めるものではなかった それでも 私たちは彼らのやり方に 従うようプレッシャーをかけられた ロイはこう言っていた ”心配すんな” ”ミックスで修正できるから 心配するな” でもそれは実現しなかった 最終的な出来栄えに できるだけ影響を与えるために 4人全員がミキシングのプロセスに 深く関わっていました ミックスには6人が関わっていた すべてライブでやってたね そして テープフェイズを 多用していた 後ろに4台のリール・トゥ・リールの テープレコーダーを置いてやるんだ テープフェイズは 複雑なプロセスだった 文字通り手作業でやってて 卓に向かって作業をする それぞれが卓の 担当エリアを持ってやっていたよ ミックス作業は 本当にワクワクするものだったね
(04:16) バンドとして 私たちはやり遂げたと思う エネルギーと創造力が テープに吹き込まれたと思う もし僕らが完全に 落ち込んでいたなら 聞けばわかると思うよ 私たちには情熱と信念と 耽溺のようなものが 十分にあったと思う その音が私たちが 望んでいたものではなくても エネルギーと雰囲気はあったんだ 最終的にアルバムは完成し 1973年7月13日 セントメアリー・カレッジでの ライブの準備をしている最中に アルバム ”QUEEN” は発売されました 多くの批評家がクイーンが 何者なのか知らなかったため 控えめな反応しか 得られませんでした それをロジャーはこう表現します 何もなかった まあ 少しがっかりしたけど その頃はライブ活動に 集中していたと思う マネージメントの功績を 認めるべきだね 彼らは ジャック・ネルソンという アメリカ人を雇って 俺達の日常的なマネージャーとして 働いてもらっていた
(05:20) 彼は俺達を現場に送り込んだんだ 当時 桟橋の端に劇場があって ハーネ・ベイという所で 冬の真っ只中だった 荒れ果てた 本当に寂しい場所で 1~2週間ほど ひたすらライブの練習を 繰り返していたよ 当時 発売されていた レッド・ツェッペリンの アルバムのレビューのいくつかを見てて 中には酷いものもあった 彼らが酷評されたなら 自分たちが酷評されても 心配ないと思ったよ バンドであることは 大きな助けになる もし私が ソロアーティストだったら 床に倒れ込んで泣いていたね ひどい状況だったけど 私たちは4人は一緒だった "奴らなんか気にすんな” ”やることは分かっている” それが私たちを救ってくれた それともう一つあって たぶんインペリアル・カレッジでの ショーからだと思うんんだけど 観客がいることに気づいたんだ 最初のアルバムを発売したとき 私たちのことを理解して 応援してくれる観客が現れた 外部から突如として 現れてくれたんだ
(06:25) 本当にありがたかった 必要なエネルギーをもらえたんだ 自分たちの中にエネルギーがあり クイーンのファンになった人々からの 外からのエネルギーがあった 凄いことだよ モット・ザ・フープルのツアーに 帯同したんだ 素晴らしかった おかげで多くのファンができた そういう人たちを獲得できたんだ 何かが起こっているような気がした 商業的には大成功とは 言えなかったけどね とても満足だった それから4枚ほどの アルバムを経て 『Night At The Opera』が ヒットした頃 初期のアルバムが ゴールドディスクになったんだ 最初のアルバムもね 本当に嬉しかった トップ20にランクインしたのを 実際に目にしたんだ 長い時間が経ってしまいましたが このアルバムを再訪する機会は ロジャーとブライアンにとって 本当に貴重なものです ”QUEEN I” のボックスセットでは 自分たちが望んでいたサウンドで 作品を制作したんだ
(07:31) 基本的には 今ある技術を使って ドラムの音を本来あるべき音に近づけ 全体の音も良くなり ミックスも良くなった 再度作業を行って 大幅に改善されたと思うよ ブライアンと俺は それを明確にするために ”QUEEN I”というタイトルに するのが良いと思ったんだ だからこれは ”QUEEN I” なんだ 当時のテープに戻って 音源を再構築して 当時の頭にあったサウンドを 再現するのは素晴らしかった これは4人全員の作品だ 私やロジャーだけの作品ではない フレディだけでも ジョンだけでもない 長い間 考えていた 私たちはいつもこう考えていたんだ ”最初のアルバムの頃に戻って” ”自分たちが望んでいたサウンドに 作り直せたら素晴らしいだろうな”って それが今 実現して とっても興奮しているよ
https://www.youtube.com/watch?v=6Y-BMViFwck
Transcript:
(00:01) クイーン・ザ・グレイテスト・スペシャルへ 再び ようこそ ブライアン・メイとロジャー・テイラーが “QUEEN I”の物語を案内します 1972年の春 クイーンは自信とエネルギー 楽曲に満ち溢れていました しかし 自分たちの実力を示す機会が ありませんでした トライデントと マネージメント契約を結んだバンドは ようやく1stアルバムの 録音をできる状況になりました しかし 録音のタイミングは かなり不安定でした 最初は大変だった でも 最終的には スタジオでまとまることができた 俺達が使えたのは 空いている スタジオが空いてるときだけ 空いている時間帯だけだった なぜなら 僕らのマネジメントが 所有していたスタジオは トライデント・スタジオのことだが 70年代には 流行のスタジオのような存在だった そこにいた俺達は 午前3時に行って それからできる限り ずっとスタジオにいたんだ
(01:06) 大変だった いつスタジオに 戻れるかわからなかったんだ テープはごちゃごちゃになって どこかいってしまって 作業は途切れ途切れになるし 時には 以前の作業を知らない 別のエンジニアが作業したりして 本当にひどい有様だった まとめるのが難しかった 本当に 大変な時期だった 重要なことは クイーンがスタジオに入り ついに1stアルバムの 録音を始めたということです バンドが成長するために 費やした時間と努力は 無駄ではありませんでした スタジオ入りする頃には かなり形になっていたと思う 本当に死ぬほどリハーサルを 繰り返した 全員が他の仕事や 学生の用事を抱えながらもね 多くの時間を費やし 細心の注意を払った 事前の練習を十分こなして 多分 やり過ぎなくらいね 一緒に作業をすることに 慣れていったんだ すぐに本領を発揮したと思うよ 入念な準備と自信が あったにもかかわらず プロのスタジオでの作業には まだ慣れる必要がありました [ロジャー] 準備はいい?
(02:09) よし 静かに OK 次はテイク8だ 録音開始 [ロジャー] うるさすぎる よし 1 2 3 4 1 2 3 4 [ジョン] タイミングがずれた [ロジャー] 速くなってるよね [フレディ] いや [ロジャー] バスドラムが全く聞こえない [ジョン] ドラムを足してもらえる? [フレディ] 雷みたいな音だね 俺達は全てを学んでいた プロデューサーがいるなんて 初めてだから 2人に頼んだんだ ジョン・アンソニー もう一人は ロイ・ベイカー ロイは自分のやり方に こだわるタイプだった 彼は スタジオでは厳しくて ボスみたいだったね 私たちもいた 早熟な少年たちは 自分たちが良いと思うものを すでに作っていた ディ・レーン・リーでね だから 自分たちのやり方で 進めようとしていたんだ 残念ながらその方法は 成功しなかった というのも
(03:11) 大きなプレッシャーがあったんだ ジョン・アンソニーと ロイ・ベイカーの後ろにね そのプレッシャーは TAP社だった 世界的にサウンドで定評のある スタジオでの音 とくにドラムだね トライデントのドラム・サウンドは 世界的に賞賛されていた でも それは求めるものではなかった それでも 私たちは彼らのやり方に 従うようプレッシャーをかけられた ロイはこう言っていた ”心配すんな” ”ミックスで修正できるから 心配するな” でもそれは実現しなかった 最終的な出来栄えに できるだけ影響を与えるために 4人全員がミキシングのプロセスに 深く関わっていました ミックスには6人が関わっていた すべてライブでやってたね そして テープフェイズを 多用していた 後ろに4台のリール・トゥ・リールの テープレコーダーを置いてやるんだ テープフェイズは 複雑なプロセスだった 文字通り手作業でやってて 卓に向かって作業をする それぞれが卓の 担当エリアを持ってやっていたよ ミックス作業は 本当にワクワクするものだったね
(04:16) バンドとして 私たちはやり遂げたと思う エネルギーと創造力が テープに吹き込まれたと思う もし僕らが完全に 落ち込んでいたなら 聞けばわかると思うよ 私たちには情熱と信念と 耽溺のようなものが 十分にあったと思う その音が私たちが 望んでいたものではなくても エネルギーと雰囲気はあったんだ 最終的にアルバムは完成し 1973年7月13日 セントメアリー・カレッジでの ライブの準備をしている最中に アルバム ”QUEEN” は発売されました 多くの批評家がクイーンが 何者なのか知らなかったため 控えめな反応しか 得られませんでした それをロジャーはこう表現します 何もなかった まあ 少しがっかりしたけど その頃はライブ活動に 集中していたと思う マネージメントの功績を 認めるべきだね 彼らは ジャック・ネルソンという アメリカ人を雇って 俺達の日常的なマネージャーとして 働いてもらっていた
(05:20) 彼は俺達を現場に送り込んだんだ 当時 桟橋の端に劇場があって ハーネ・ベイという所で 冬の真っ只中だった 荒れ果てた 本当に寂しい場所で 1~2週間ほど ひたすらライブの練習を 繰り返していたよ 当時 発売されていた レッド・ツェッペリンの アルバムのレビューのいくつかを見てて 中には酷いものもあった 彼らが酷評されたなら 自分たちが酷評されても 心配ないと思ったよ バンドであることは 大きな助けになる もし私が ソロアーティストだったら 床に倒れ込んで泣いていたね ひどい状況だったけど 私たちは4人は一緒だった "奴らなんか気にすんな” ”やることは分かっている” それが私たちを救ってくれた それともう一つあって たぶんインペリアル・カレッジでの ショーからだと思うんんだけど 観客がいることに気づいたんだ 最初のアルバムを発売したとき 私たちのことを理解して 応援してくれる観客が現れた 外部から突如として 現れてくれたんだ
(06:25) 本当にありがたかった 必要なエネルギーをもらえたんだ 自分たちの中にエネルギーがあり クイーンのファンになった人々からの 外からのエネルギーがあった 凄いことだよ モット・ザ・フープルのツアーに 帯同したんだ 素晴らしかった おかげで多くのファンができた そういう人たちを獲得できたんだ 何かが起こっているような気がした 商業的には大成功とは 言えなかったけどね とても満足だった それから4枚ほどの アルバムを経て 『Night At The Opera』が ヒットした頃 初期のアルバムが ゴールドディスクになったんだ 最初のアルバムもね 本当に嬉しかった トップ20にランクインしたのを 実際に目にしたんだ 長い時間が経ってしまいましたが このアルバムを再訪する機会は ロジャーとブライアンにとって 本当に貴重なものです ”QUEEN I” のボックスセットでは 自分たちが望んでいたサウンドで 作品を制作したんだ
(07:31) 基本的には 今ある技術を使って ドラムの音を本来あるべき音に近づけ 全体の音も良くなり ミックスも良くなった 再度作業を行って 大幅に改善されたと思うよ ブライアンと俺は それを明確にするために ”QUEEN I”というタイトルに するのが良いと思ったんだ だからこれは ”QUEEN I” なんだ 当時のテープに戻って 音源を再構築して 当時の頭にあったサウンドを 再現するのは素晴らしかった これは4人全員の作品だ 私やロジャーだけの作品ではない フレディだけでも ジョンだけでもない 長い間 考えていた 私たちはいつもこう考えていたんだ ”最初のアルバムの頃に戻って” ”自分たちが望んでいたサウンドに 作り直せたら素晴らしいだろうな”って それが今 実現して とっても興奮しているよ
『QUEEN I』発売を記念して少し戻ってきたYouTubeのドキュメンタリーの第2回。今回はデビューアルバムの録音と『QUEEN I』というタイトルにになった理由です
— クイーン日本レーベル公式 (@queen40jp) November 1, 2024
見る⇩https://t.co/v6USTybPcK
*YouTubeの字幕機能で日本語表示できます。 pic.twitter.com/lQEEq6tOCR